* さあ逃げよう、誰も知らない場所へ *

「あいしてるよ」

 その言葉が言えたなら、どれだけ良かっただろう。迷わずにその言葉を言えたなら、私は君を愛して、愛し続けて、生きていたのかもしれない。迷うことなく、君だけを愛していたのかもしれない。
 だけれど、私はその言葉を言う資格を持ち合わせていない。私は、君と対等な「ヒト」じゃない。それは生まれた時から知っていた、己の運命。

 デスマスター。死神とも称されるこの称号を、私は生まれた時から持っていたのだ。だから、君を愛すことなど、できなかった。

* * * * * * * *

「おーい、サボりかー?」

 屋上で寝転がっていた俐咋を咎めるでもなく、不思議そうに尋ねる声。聞きなれたこの声で、意識は覚醒した。うっすらと見える暗緑色の髪と黒い瞳。やはり冬哉だったのかと俐咋の頭で処理が終了する。
 それからゆっくりと目だけを動かして、自分が寝そべっている床を見やる。どうやら屋上で惰眠を貪ってしまっていたようだ。

「今何時?」
「んー、空を見れば大体判ると思うんだがな」

 寝ぼけ眼で空を見上げる。フェンスの向こうに沈もうとしている太陽の姿。周りは赤らんでいて、その時間が夕刻だということを理解するのにだいぶ時間がかかってしまった。脳も寝てしまっているようだ。

「……わざわざ、起こしに?」

 寝ぼけた頭で、言葉を紡ぐ。脳が寝ていて覚醒しないせいか、もにょもにょ、という感じにはっきり喋れないままだが、冬哉はその言葉を理解して照れくさそうにそうだよ、と一言。
 家に一度帰って、いないことに気付いたのだろうか? それとも誰かに屋上で寝ていたという情報を得てきたのだろうか? どちらにせよ、わざわざ起こしに来てくれるとは思わなかった。

「ここんところ、家帰ってくるの遅かったのはこれのせいだろ」
「なんだ、気付かれてたんだ…。授業結構サボってるの」
「取ってる授業違うからアカデミーでいつも同じとは限らないから、周りに聞いてたんだよ。そしたら、最近あんまり出席してないって話を聞いてな。留年するぞ、俺みたいに」
「大丈夫、冬哉みたいに面倒だからって理由で試験受けないってことはないから」
「そろそろ本気出すから、全部試験受けるよ。元学年首席をなめるなよ」
「そこ、元が付いてたら意味ない」

 思わず俐咋は笑ってしまった。確かに彼は2年間休学をしていて、過去に首席だったならば、元首席なのだ。それは当たり前のことなのに、どこかおかしく感じてしまった。

「あのさ、冬哉」
「なんだ」
「このまま、逃げることが出来たなら…誰も知らない場所へ、逃げることが出来たなら。私はデスマスターという隔たりを気にする必要はないんだよね」
「そうだな。この世界にいても、お前はただの学生だけどな」

 この世界で、デスマスターではないんだ、といつぞやかに言われた言葉をまた言われた。そんなこと、俐咋の中ではとっくに理解をしている。
 理屈としては、理解している。だけれど、それに体が付いてこない。理屈で判っているのに、理解できない。なんて難しい世界に産み落とされてしまったのだろうか。

「でも、私の本来居るべき世界では、私はデスマスターという称号を持つのよ。その冠を外すことはできない。私がデスマスターの一族に生まれ、当主となったことは、まぎれもない事実。逃げることなど許されない、事実」

 逃げてしまいたい。そう思ったことは幾度となくあった。数え切れない。
 俐咋は、そんなに強い心を持っていないと自負していた。だから、その重圧に逃げ出したいと思うことが、何度もあった。それを他人に見せないだけで、何度も。

「……どうして、逃げたいと思ったんだ?」
「どうして、聞くの」
「そうだな…。チャイルドワールドの管理者として、今後参考になるかもしれないと思って。少なからず、俐咋以外もそういう思いをしている可能性はあるからな」

 どうして、と聞かれて、それを答えていいものかと俐咋は迷った。俐咋自身がようやく諦めようかと思って、でも諦めきれずにいて、永遠に片思いをしようかと考えていたのだ。
 その理由が、人を愛していたからだなんて。そんなことを言ったら彼は怒るのではないだろうか。

「あんた、聞いたら悲しむよ」

 判っていた。冬哉は俐咋が好きだとはっきり言う。だから自分を見てほしいとも言う。気付かないふりをしたくても、彼は断言をした。俐咋の前で、言葉にした。
 そんな彼に、その理由を告げるだなんて。悲しむと判っていた、だから聞いた。それでもいい、と短く答えが返ってきて、俐咋は目を伏せて、呟き始めた。

「私がデスマスターでなければ、死神なんて名前を持たなければ…、普通の生活を送ることが出来たんだと思う。漫画なんかに良くある、幼馴染との恋をして、結ばれて、普通に、家庭を築いていたのかもしれない。ほんとは、そうしたかった」
「……マコトか。そんなに好きだったのに、お前は何も言わなかったんだな」

 デスマスターだったから、自分の立場を判っていたから、言わなかった。言えなかった。言いたかったのに。

「多分ね、私、マコトが私のことを好きだと自覚するよりも早く自覚していた。マコトが好きだって。人の気持ちに気付くのは早い方だから」

 だから、あんたが私を好きだったのも気付いていたわ、と俐咋が言うと、冬哉が悪女だと一言短く放った。
 悪女、という言葉に俐咋は、笑みすら浮かべてしまう。そうなのかもしれない。その気持ちに気付いていたとしても、知らないふりをする。知っていても、迫られても、何食わぬ顔をする。
 本当は結ばれたいと思っている人の前でさえ、そうして嘘という名の仮面をかぶるのだ。

「だって、そうするしかないじゃない。普通の人は知らない存在なのよ…教えられないもの」

 俐咋が発したその言葉に、少し嗚咽が混ざっていたことを、冬哉は聞き逃さなかった。それを聞いてしまって、無意識で体が動き、俐咋を抱きしめていた。

「と…、や…?」
「別に誰も見てない。マコトと別れたとき、酷く落ち込んだお前を知ってるのは、この世界で今、俺だけだ。だから、泣きたいなら泣けばいい」

 泣くことを我慢してはいけない。我慢をしなければいけない時もあるだろうけれど、今は俐咋が我慢をするときではない。
 ぽつりと、俐咋が冬哉に感謝の言葉を漏らす。それから暫くして、冬哉の耳に大きな嗚咽が聞こえてきた。それを聞こえないふりをしてやるのも、優しさだと知っている。だから、ただ今は俐咋を泣かせて、知らぬふりをすることに徹する。

* * * * * * * *

「……りがと」
「ん、気、済んだか?」
「うん」
「じゃ、帰るぞ」
「…うん、ありがとう」

 そのとき、すぅっと細められたの瞳と、自然に弧を描いた口許で形成された笑顔を見て、冬哉は一瞬、面食らった顔をした。それから、体ごと扉に向けて歩いてゆく。どうしたのだろうと俐咋が考えていると、置いていくぞと言う声がした。慌てて冬哉の後を追った。

 忘れてはいけないのに、あなたを忘れようとしている。
 浅はかな私を、どうか許して。

 自分を求めてもらうことで、お前を忘れさせようとしている。
 こんな形でしか彼女を捕えられない俺を、どうか許して。

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2009/12/22
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