それは、ちょっとした事故だったのかもしれない。
いつもと同じ光景。仕事をしないで寝ているアルト。
それを叩き起こす私。
少しでも眠気覚ましになれば、と有無を言わさず書庫に本を取りに行かせた私。
そしたら書庫から何かが倒れるような大きな音がして。
何事かと行ってみたら、
「アルト!」
脚立ごと倒れていた、アルト。
もし、私が書庫に行かせなければ。
もし、優しさなんて抱かずに、問答無用で仕事をさせていたなら。
なんて全部、後の祭り。
けれど後悔するのは早すぎた。
本当の後悔は、その翌日から始まるのだから。
「誰、お前」
目が覚めたアルトに、開口一番言われた言葉。
俺、なんで寝てたんだとかならまだしも、ぐっさりと心を刺す言葉。
俗に言うあれだ、記憶喪失。
と、冷静に呟いている私の殻。
中身はすごく痛くてたまらないのに。
いつも損を招く、私の強がり。
「たいした力も無いのに、何故ここにいる?」
そんなの私が聞きたいよ。
私だってそんなの分からないのに。
だからそんな、嫌そうにしないで。
なんて。
感傷に浸った振りは止めよう。
「だったら、返してよ。私を元の世界に返して!」
叫んだ。
泣いた。
ああ、泣くつもりなんてなかったのに。
こいつの前で泣くなんて、もう二度としないと決めたのに。
たとえ記憶が無いとしても、ほら、強がる。
「元の、世界?」
「あんたのせいで……っ」
違う。違うの。
そんなことを言いたかったわけじゃない。
心臓が痛いから、誤魔化そうとしているだけ。
それが何故痛いのか、気付きたくないだけ。
けれど、一度堰を切った涙は止まらない。
アルトに罪は無い。
記憶を失くしたのだって、元は私。
私が、
「……っ、どう、し」
あれだけ嫌な表情をしていたのに。
酷いことを言ったのに。
ねえ、なんで?
私の涙を拭いたの?
「痛いから」
アルトはそれだけ呟いて、私を見据える。
逃げられない瞳の強い力。
記憶を失くしても、それは変わらない。
「お前なんか知らない。けど、泣いてるのを見てると、心が痛むから」
笑って欲しいとまでは言わない。
記憶があれば言ったかもしれない。
でも今は、記憶がどうとかではなくて。
あっても失くても、アルトはアルト。
「変態」
「……そこで言うかその科白」
まるでそれは、昨日までのアルト。
「だって自称でしょ」
「だからって、他人に言われるのとは違う」
「仕方ないじゃない。事実なんだから」
嫌われたかもしれない。
全くの他人に言われたら、誰だっていい気はしない。
だからこそ、私に科された罰なのかもしれないけれど。
でも。
「その顔、いいかも」
「はい?」
「笑ってて」
ここで言うの、その科白。
アルトと同じつっこみを心の中で返した。
やはり、本能的に変態なのだろうか。
「変態とか言うなよ。思うなよ」
「思うくらいは許してよ」
「あのな……」
呆れ果てた声に、一瞬、勝ったと思った。
そう、それは一瞬で。
「ちょ、……っと」
目元に触れた、生温い感覚。
でも少し、ざらついた感覚。
涙を舐め取られた、らしい。
アルトはといえば、少し黒い笑みを浮かべていて。
一抹の不安を感じたけれど、でも、それは。
目覚めたてのアルトよりも、見知った顔に近くて。
先手必勝、唇にキスをして、逃げた。
だから、その後のことは知らない。
分かっているのは、ただ。
「仕事をしなさい」
「えー、眠い」
「しなさい」
「……コーヒーお願いします」
日常が戻ってきただけ。
もう、心は痛くない。
別の意味で頭は痛いが、あの言いようのない痛みはない。
アルトの記憶は、失くした期間の記憶がすっぽり抜け落ちていた。
とりあえず、安堵しておく。
きっとあれは、気の迷い。
鳴葉ゆらゆさんからアルイザ2個目。5万ヒット本の原稿を含めると3つめ。
毎度毎度素敵なアルイザを下さるので、読む度に身悶えします。
もう、なんていうの、しっかり掴んで下さってるというか…!
生みの親として嬉しくて仕方がないです。